桃李言わざれども、下自ら蹊を成す。
《とうり いわざれども、した おのずから こみちをなす。》


※桃や李(すもも)の木は何も言わないが、その下には自然と人が集まって道ができる。優れた人物のもとには、自然と人が集まるの意。
史記 《李将軍列伝》 / 司馬遷
私は、人の意見に真っ向から反対したり、自分の意見を断定的に述べないことにした。決定的な意見を意味するような言葉、たとえば、“確かに”とか“疑いもなく”などという言葉はいっさい使わず、その代わりに「自分としてはこう思うのだが……」とか「私にはそう思えるのだが……」と言うことにした。相手が明らかに間違ったことを主張しても、すぐそれに反対し、相手の誤りを指摘することをやめた。そして、「なるほどそういう場合もあるだろうが、しかしこの場合は、少し事情が違うように思われるのだが……」というぐあいに切り出すことにした。こうして、今までのやり方を変えてみると、ずいぶんと利益があった。人との話し合いが、それまでよりもよほど楽しく進む。控え目に意見を述べると、相手はすぐ納得し、反対する者も少なくなった。私自身の誤りを認めるのが大して苦にならなくなり、また、相手の誤りも、たやすく認めさせることができるようになった。
この方法を用い始めた頃は、自分の性質を抑えるのにずいぶん苦労したものだが、しまいには、それがやすやすとできるようになり、習慣にさえもなってしまった。おそらくこの五十年ほどの問、私が独断的な言い方をするのを聞いた人は、誰もいないだろう。新制度の設定や旧制度の改革を提案すると、みなすぐに賛成してくれたのも、また、市会議員になって市会を動かすことができたのも、主として、第二の天性となったこの方法のおかげだと思う。もともと私は口下手で、決して雄弁家とはいえない。言葉の選択に手間取り、選んだ言葉もあまり適切でないことが多い。それでいて、たいていの場合、自分の主張を通すことができたのである。
人に真に好かれるには、相手が誰であろうと、ともに大いに楽しんでいる様子を示すことだ。その際、相手を楽しませようとするより、むしろ相手とともに大いに楽しむのがよい。こうした気質の者は、たとえ大した教養や機知がなくても、常識があり、その立居振舞いに何となく人なつっこいところがあれば、偉大な才能がありながらもこうした気質に欠ける者よりも、人の心を大きく動かす。
相手に気に入られる最上の方法は、あなたが聞いたとおりに、相手が語ったことを再び語ることだ。
河や海が数知れぬ渓流の注ぐところとなるのは、身を低きに置くからである。その故に、河や海はもろもろの渓流に君臨することができる。同様に、賢者は、人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置く。かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがない。
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